ハ行とマ行を多用した音読課題。口周りの脱力と、閉じる動きがポイント。
鱧(ハモ)は京(みやこ)で召し上がることのできる見た目はウナギに似た魚です。細身で見てくれは面妖、方々で褒められることはほぼほぼありませんが、まず食むと頬(ほほ)が落ちます。もう箸も飯も待ったなし、ととある母と継母は早々(はやばや)と頬張っていらっしゃいました。
腹が減ったと浜屋様がはしゃぎ立てるので、「ははあ!」と召使いはお櫃の蓋を上げ飯をよそい、姪はメソメソと瞼を腫らしてもう偏(ひとえ)に放って人任せにしたいほどでした。
ほとほと申しても、心づけは無償、滅私奉公の精神で尽くせと申すのが浜屋様の求める「法」でございますから、「とほほ」と方々手を尽くしまして方法を模倣するのでありましたが、無知蒙昧ゆえに疲弊してしまいました。
浜屋様は顰蹙すると人目のないところで、昔見初めた美馬太夫(みまだゆう)の破魔矢を披露して糸目を細め「認めぬ!」と暴れるので、物々しい話ですが危機を免れるために被服貸与された法被の内側に緋色の狒々(ひひ)が彫られた箒を持ち歩きました。今更浜屋様に褒めて欲しいとは思いません。
補遺:氷室(ひむろ)で美馬太夫と見える(まみえる)場合、美馬太夫へ「真水と見紛わないこと」と伝えること。
※上記の鱧はフィクションです。実際の生態や食感については各自でお調べください。
姫様、目を見張る妙案だと褒めて欲しいものです。頬を染めて本気の目をして迫るだけで、一目惚れは間違いなしでしょう。手間暇かけて見目を麗しく整えたのだから模倣品などと面倒ごとを申されても困るというもので、褒められないなんて本意ではありません。褒めて欲しいからこそ日々のメンテナンスを欠かさずハイスペックを維持しているのです。もはや、身より漏れる止めどない気品は我が身のことながらひしひしと恐怖すら感じ、身悶えするほどです。これも偏(ひとえ)に姫様に褒めていただきたいが故、たとえ無知蒙昧の他の娘のもとへ見初められに行くとしても、姫様のお役に立てるならば、召使いとして本望にございます。姫様と初にお見(まみ)えしました日は、はっきりと身に沁みて秘めております。どうかこの私めの日々の行いを褒めて遣わしてくださいませ、姫様。
貧民街では、店商売(みせしょうばい)だとか日雇い・日払い労働だとか、皆が日々を生きるのに必死なのだが、見せしめだの身売りだのも横行している。皆が使命感も麻痺して見咎める暇もない日は、さして問題もないが、稀に彼らに異を発する者が出てくる。愚かにも褒められたものでもなく、まるで身捧げしてるのと変わりはしない。末路がどうなるかは火を見るより明らかだ。貧民街の中でも上層の人らに非を突きつけるのではなく、つつましく清貧の日を送っているふりをするのが、賢く生きるヒントなのだ。平々凡々と努め、非凡さを隠していく、貧民街で生きていきたいなら他ならない生き方なのだ。それでも、ひと度貧民街の外を望んでしまうのなら、上層部のようなの生き方を模倣するか、外に出て野垂れるかの選択肢、ほぼ2択だろう。
ひもじい思いをしながら、吹き荒ぶ風に身を震わせる日もありますが、真面目に懸命に日々を過ごしていれば、女神さまが手を差し伸べてくださる日も来るでしょう。女神さまに奉じる思いで身を粉に、自らを信徒と思い込み熱中している間は、本当に他の市民と比べて劣るもない清貧を貫いているのだと信じることができました。自己催眠でしかないとしても、貴賓の差が有れど貧すれば鈍するのだと、悲鳴も嗚咽も秘めて過ごす他なかったのですから、自らで道を拓くこともできぬ非力な身では、女神さまが手を差し伸べてこの悲願を拾ってくださるのを待つ他ないのです。女神さまの前髪を把持する日を夢見て、日に身をやつしていくのです。
気の滅入る日も二日続けばもう参ることもなくなり、今やどんな日が訪れようと「ふはは」と笑い飛ばすことができるようになった。草木も生えぬ不毛な土地を離れ、いつか不夜城と呼ばれる「ママシティ」に引っ越したいと思っている。ママシティに行けば今のままならぬ暮らしもややマシになるものだろうと見ている。ママシティにある狒狒(ひひ)の「シンボル石碑」を一目見てみたい。狒狒は膂力もあり色を好む象徴であり、ママシティの今までの発展そのものの現し身のようなものらしい。狒狒のように自らに膂力が備わっていればとも思うが、狒狒は狒狒、私は狒狒にはなれないのは火を見るより明らかなので、ママシティに行くまではせめて「ひひひ」と笑って過ごすのだ、今日の日を。
このような身悶えしてしまいそうな身空では身のあることなどなく、無味乾燥としてしまいそうですので、三月(みつき)に一度の文(ふみ)ももしかしたら先生を退屈させてしまっているのではありませんか? もし文(ふみ)をやめたいとお思いでいらっしゃいましたら、いつでもおっしゃってください。ただちにでも私は震える手で握った筆を置いて今までに先生にいただきました文々(ふみぶみ)を焚書いたします。先生との思い出を焚するのは身ももぎ取られるような思いではありますが、先生が私のことを不憫に思って文(ふみ)を続けていらっしゃるのだとしたら、そちらのほうが私には耐えがたく、卑しくも噴気で文(ふみ)を破り捨てる自分を想像しただけで、身悶えしてしまいす。