タ行・ダ行・ザ行・サ行を多めに取り入れた台本。濁音と清音の使い分け。
時差が生じるか出そうとしたのだが、総出で手計算し数字を乗じてもそれぞれの出す数字が出揃わず、総辞職も辞さない始末だった。始終、籍のある全員全力だったのだが、別議題の税制の脆弱性を出され、審議者は些事さえ是とせなんだった。都道府県ごとの灯台数、堕胎率やただの殺人事件、造作もなしと自社データが大出血サービスだった。さらには『伊達男』だと大絶賛していた当代の大地主(だいじぬし)だった多田曽根 郷貞(ただそね さとさだ)の話題で諭され、ただただ絶句するだけだったのだと、弟子は使徒として出た脱退の祭事での出来事を綴っていたのだが、ついぞそれは弟子の不祥事によって途絶えてしまった。
イドというのは、自身の持つ快楽や欲の源のようなものでさ、これが全身を隅々まで支配してる前提で話すとさ、それじゃもうてんで話にならないわけで、たとえ人々の体内のイドの届く範囲が手指の先から爪先までとして、それだけイドが染み渡ってるとしたら、一大事なわけ。進んで欲に塗れたら駄目だと思うんだよね、だって歳をとって駄々ばかりこねるだなんて痴態を晒すわけでしょ? トドメ刺してるよね、自身の人生の終(つい)がそれって、自伝にしたら、駄作も駄作、版元も定めた手数料渋ると思うよ。だからイドって毒だとしか思えないよ。ただもしイドが身体から出ていったらさ、残念がる人もいるかもしれないけれど、度し難いとしか言えないよね、イドなどどうしたって邪魔くさいんだから、イドがイドがと言う人同士で、ずっと一緒にいればいいと思うよ。
自分自身に常時自信がないと、いざの時分に万事うまく運ばずタジタジと身じろいでしまいかねないので、泰然自若の精神で心身統一を図り適宜、自力で乗り切って欲しい。
自画自賛もよし、自らに贈る賛辞に貴賤無し、己が矜持を高めたる者こそいざの時世でも獅子奮迅の偉業をなせるものなり。どうせ人生の終いには辞世の句なぞ囁き、生涯の自省とともに今生に「さらば」を突きつけするのだから、生涯の道中にて恥など秘して、何も為さず死にゆくなぞ耐え難し、それこそ恥である。
ついぞ万事恵まれぬ場合には、道沿いにある地蔵様なぞに済度の慈悲を乞えば、地蔵様はいみじくも吉事凶事いずれも褒めてくださるはずだから、なに心配召されるな。
夕方、さざ波の音だけが寒空の下に木霊していた。さんざめくようにも寂しいようにも聞こえるこの音が好きだった。耳の奥のほうまで、細い身体の管をざっと通り抜けていく感触が、鼓膜を確かに打(だ)して残響するこのさざ波が、私は好きだ。砂浜に座していたいけれど、日が差して肌をざりざりと焼くので、さざ波を日がな一日堪能することは能(あた)わない。せめてと小豆をザルに掬い、ざらざらと鋤いてみたけれど好いた音ではなかった。巻き貝を耳に当ててはと言われたのだが、試しては捨て、試しては捨ての繰り返しでとうとうついぞ理想のさざ波には出会えなかったのでやめた。つまるところ、日暮れの限定的な時間でしか、さざ波とは出会えないのだ。
背取りを日銭の足しにしています。質屋によさげな品が並んでいないか、日頃から確認するのが性分になってしまいました。じっくり目線を向けていると店主にじっと怪しまれてしまいますので、全然背取り目的じゃないですよー、自分は良心的な一市民ですよー、と同業者でないことをアピールします。時々目を見張るような品に出会うこともあり、絶対モノにしたいなどと感じる、そんなときに限って店主が頭でっかちの店であることが多いです。こちらがどんなに売ってくれと頼み込んだとしても、絶対に売ってくれないのです。熱量が足りないのだとか全然とりつく島もなく、前回の絶版の『絶品! 贅沢な四川風満漢全席解体全書』を逃したのは痛手でした。
自称始祖だと示唆する人がヒ素で死んだことを始祖の秘書が死所とともに公表した。始祖は信徒に対して始祖の深層心理をシンクロさせることで信心を得る手法を用いていたが、信徒のうち何人(なんぴと)が始祖の真意を汲み取れたかは知らない。ただ、始祖の秘書と司書だけが、始祖に心酔していたのは間違いない。秘書は根回しし、司書が始祖の思索を後押しし、始祖の信仰を増やしていく手法だった。始祖がヒ素で死去しなければ信徒から信心深い者を使徒とするはずだったが、挫折することとなってしまった。司書と秘書は仕方がないので、信徒とするはずの人を新始祖(しんしそ)として昇進し、始祖の死を消失したものとしようとしている様子だ。
親善大使の接待という大役を任せられた。大使という職務に就く人物と相対することはそうそうないので果たして私に務まるだろうかという心許なさがあるのだが、後は野となれ山となれの精神で、背水の陣を敷いたと思い、ここが清水の舞台なのだと、手に汗握ろうともやり遂げるほか、私には選択肢などはもうないのだ。仮にここで失態を冒そうものなら、上司から叱咤を受け、私の進退も転落の一途を送ること間違いなしだ。ここで失脚でもしようものなら、再来週から自宅に来てくださることになるベビーシッターに断りを入れて、夫婦で二人、交代で寝床に就くようにして新生児の世話をしていくことになり、ますます育児と仕事との両立が難しくなってしまうだろう。