サ行を多めに取り入れた台本。
『歯科医師を志望している新入社員がいると紹介されて、仕方なしに最初だけということで会うことにしたのだが、失敗した』――のだと記されていた。
そもそも、そういう想定で採用試験を実施していないし、医師を志す人が当社を志願するはずもなし、怪しさ満点だった。しかし筆者は自分ひとり静かに済ませようとしていたようで、筆記するのみにし、進んで口外しなかったのだとも記されていた。
この記述を知ってしまった以上、私として、最低限すべきことをし、然るべき処置・処理を施行するのが、せめての務めなのだろう。私は手記を焚書したのち、知り合いの歯科医師を訪ね、市井から探し出した「白井氏」と引き合わせし、そしてそのまま手術室で歯科手術を行った。件の新入社員が白井氏の臼歯に仕込んだ発信器の摘出手術を済ませ、すべてを白紙に戻し、終止符を打つのだ。
寿司の手配手数料をせしめた寿司職人見習いは、師匠に内緒でその臨時収入を懐に忍ばせていた。ばれることがなかろうとさして問題視していなかったようだが、その実すでに師匠は承知だったようで、子々孫々の世襲制を敷く運びとなり、寿司職人見習いは雀の涙ほどのはした金を握りしめて、鼻を啜る羽目となった。
すでに寿司を握ることはなく、今は銭湯の煙突に昇り、煤を払う煤払いの職に就いていた。しかし、一度染みついた習性はそうそう消えることはなく、様々な施設を転々とする始末で、ましにさえなればよいが、仕事をこなせず、人としての裾野が滑落しているのだろうとさえ思う。運送業をしていても、あくせく汗水を垂らし、せっせと急(せ)いてくれれば任せられるのだが、課せられた貨物を帆船で先方へ輸送するなどと言い出したので、千年経っても任せられないだろう。
さして問題視していなかった諍いが刃傷沙汰に発展してしまい、終いには見せしめのように刺傷の痕を見せつけてくるものだから、少々腹が立ってしまい、その姉妹を指導室へ呼びつけた。
教職として、日頃人としての姿を示せていればよかったのだが、済んだことを言っても仕様のないことだ、姉妹へしっかり躾をし、人様に見せても恥ずかしくのないような人として更正してもらうのだ、と思考したのが昨夜の深夜一時を過ぎた頃。
ひと晩経って、指導室に来た姉妹はしおしおと萎縮したようなしおらしさを見せ、武勲のように晒していた刺傷痕も痛がる素振りを見せる始末。策士のなす仕草としても、さすがに教師といえ人の子、姉妹をしばらくは見逃してやることとした。
鹿威し(ししおどし)は山から流れる清水(しみず)を利用した害獣よけのために施設される工作物です。専門の職人である必要はありません。案山子や鳴子と同様の目的で製作されますが、鹿威しはしばし、日本料理店や庭園などでもその姿を目にすることができます。清水がさらさらと、割った竹の溝を沿うように流れましたら、最後には「節」の端のほうに少しずつ清水は溜まっていきます。やがて、清水の重みに沈むように頭を下げた竹が、カーン、と静かな空間に清水の飛沫を散らしながら音を鳴らします。鹿威しが数個並びましたら、それはそれは自然の織りなす調べが耳朶(じだ)を打ち、自然の中に心身が沈む錯覚すら覚えることかもしれません。
獅子は子を千尋の谷に突き落とすとはよく言いますが、社会においても谷底の仔獅子(こしし)のような人はいます。嗜虐心をくすぐるのか、すぐ人から叱られてばかりで、まるでシンパシーを誘っているかのようで仔獅子と違うのは自ら谷底から這い上がろうとしない点です。進んで足を動かさなければ底からのし上がることはできはしないのに、仔獅子さんは底でしずしずと時が去るのを待っているのです。仔獅子が仔獅子自身で這い上がらなければ、誰も仔獅子を助けやしないというのに、仔獅子は自身が非力な仔獅子である自意識がないのです。仔獅子が自信をつけて底から顔を出す時分には親獅子は仔獅子を見捨ててしまったあとでしょう。
制止に耳も貸さず、そんなに急いているから前線で辞世の句を詠む羽目になるのだ、と師匠は私を嘲笑しました。確かに師匠の至言は至極正鵠をして正しいのでしょう。しかし、正しさだけが本当に至上なのだとは私は思いません。正しさを振りかざした結果は史実が如実に示しています。今の戦争だって双方が正しさを信じた結果、袂を分かち雌雄を決するまで戦うしかなくなった末のことでしょう。そして勝者の国では勝戦の市など開かれ、首級をあげた英雄を讃える詩を読み、凱旋旗には英雄の名を刺繍するのでしょう。対して敗戦の国では死者を送る葬式のために悲しみのヴェールをその顔に降ろすのです。この戦争に勝者なしの終止符を打つためなら、私は生き急いでも構わないのです、師匠。
男女における性差について、仕事上での生産性の差を一斉に精査する取り組みが全社大で執り行われた。昨今の世情だと男女での待遇の差や差別について厳しい風潮ではあり、当社においてもひとえに性差による生産性の差についてはさして差があるとは考えていない。男性が採用されがちな力仕事においても、男性以上にせっせと作業をこなす女性もいれば、繊細さや緻密さが求められる職場においても、女性だけがさっさと仕分けをこなすというわけでもない。しかしながら、今回の調査は上層部からのお達しにて一斉調査するようになり、その結果をせかせかとレポート用紙にまとめて提出しろと言われているので、男性か女性か適正のありそうな人に任せるとしたい。
心神喪失とは、精神と身体(しんたい)が消耗し精力的な活動が得られないことを指しますが、一方心神耗弱(しんしんこうじゃく)とは心身の障害により善悪の判断を正しく計れなくなっている状態を指します。善悪の彼岸という言葉ありますが、過去の善悪の是非について今一度考え直し、新たな善悪について考えるということだそうですが、では心神耗弱の場合、向こう側に渡るとしてもそもそもの善悪の此岸とは何を指すのでしょうか。こちらの岸が定まっていないのに、向こうの岸しか話題にしないのは果たして可能なのでしょうか。死して屍を晒し四肢を投地したとしても答えは出ないでしょう。私は心神喪失していますので。